サービス講座最終日である。生徒のサンプルも十分揃った気がする。7時前に塾長から電話。タバコ頼んでる楊さんが今日来るので、タバコとコーヒー(もちインスタントw)頼もうかとのこと。
いいね、いいねぇw ちょうど切れました。是非、お願い申し上げます。9時前に女性3名。一人はタバコお願いしてる楊さん。ほか2名は初見。例によって自己紹介から始める。
二人とも日系企業の通訳であった。多分自信慢満で話したつもりであろう。いつも通りw、一番悪いところのオンパレードであった。逆に言えば、コレほどのサンプル(初学者にとっての反面教師w)はいない。即矯正した。例によってこの講座のスタンスの説明をした。私はコレで飯食ってないこと。チャイ語一切興味ない日系独資社長であって、この教室内は、極めて正確かつ明確な意味での東京のオフィスそのものなのである、ということである。こちらも何回も言っているうちに、基本的立場がはっきりしてくる。
二人とも大連地元の人たちで、かつ日本語を大学で専攻してきた連中であったので、日本からのお客さんを観光案内しなければならない機会が絶対あるので、どの程度大連を、それも日本統治(租借地)時代(1905年から1945年までの40年間の)史跡または現在もそのまま使われている施設が多いかを説明解説できますか、と聞いたら全くわかりませんということでしたw。
まぁ、まだ24歳で会社内通訳であるから致し方ないかもしれない。二人とも日系企業勤務で、ス○ー精密、日本○産である。開発区にあるメーカーで、進出の歴史は早いほうの有名企業である。
2002年の秋頃から、特に中山広場にある歴史的建造物には市政府がプレートを掲示してその簡単な説明がしてあるから、折りに触れて見ておくように言った。そのことも知らないようであった。行動の場が市中心部から車で40分以上かかる開発区であってみれば、これも致し方ないのかもしれない。
9時から11時40分までそのようなことで、日系企業通訳(しかし日本語能力試験は2級)であったから、まあまあ会話は成立したようであった。
1時に何人か来る予定だそうである。昼は大外近辺を散歩することにした。今朝家を出るときには少し雪がちらついていたのだが、風がなかったので暖かくなるだろうと思っていた。昼には太陽が顔を出して過し易くなっていた。
坂道を登って大學ゲストハウスの喫茶店に行った。休みだった。隣のレストランもやってないという。学生の帰ってくる2月16日までは大學近辺の店舗はほとんど休業状態のようであった。朝鮮族(この人は韓国からの移住かも知れない)のやっている自家製パン屋でクリームパンとコーヒーで昼食(の替わりw)をとった。自由が丘・下北沢あたりで見かける個人経営のパン屋とかわらない。よく日本人が纏め買いにやってくるとのことである。この前最初に来た時は夕方だった。2度目である。禁煙だとのことだったので早々に退出した。
坂を下って右折し、南山日本風景一条街を散歩した。旧日本人街である。車進入禁止になっている高級住宅街なのだが、なんて言うか、各社のモデルハウスセンターのようなところなのである。それも非実用的w住宅の...。分譲中なのでモデルハウスではないのだが、当然誰も買わないので遊園地でもないとにかく訳のわからんところである。何棟か昔のまま残っている住宅を指して、学生時代はみなそのまま残っていて当時の風情があって、学生達は昼には大學からここに散歩に来ていたのだと塾長が説明してくれた。ま、その新築住宅のセンスといい、無残なものである。ちんけな近郊不動産屋の建売現場であった。当然夜はゴーストタウンと化すわけだ。
例の「ヒュンダイおばかビル」と双璧かな。
韓式おばかビルに日式おばけ街w 違いは、おばかの方は例によってK式なんとかなるべのケンチョナヨ精神で見の程知らずの高層ビル建築をカネ続かなくて中途半端で投げ出したwだけなのだが(正に市内入口の追分地点第1等地にあるため、建築途中なまま晒したのではあまりにミットもないwんで、市長命令で市の費用で外側だけは完成させたらしい。以来5年以上見るからに韓式デザインのゴーストビルw)、おばけには日本は一切関わってない、ってことだな。その竣工当初から内装なしの入居ゼロヒュンダイおばかビルの、ちょい近くに昨年暮れ竣工開業した「伊都錦」(イトキン)ビルは8階建ての堅実建築物。店舗前の通りも銀座通り以上に広く取ってあって、日本企業の威容(堅実経営)をあますところなく示している。まさに好対象のモニュメントwである。メインストリートの中山路を市内に向かって走るといやおうなくこの2棟が並んで目に入るようになっているから、地元民に与える無意識の両国比較教材となっているというわけである。これは大きいだろう。
お隣七七街の並木は、一見田園調布か成城の銀杏並木通りの風情である。街燈あってもわずかだから、夜は真っ暗だろうw。
児童公園を横切った。旧児童遊園地である。明沢池は工事中。いつもは冬期間アイススケートリンクになるらしい。旧鏡ケ池である。なんてことない薄汚い広場ってな印象しかない。正門の説明書きには、明代から清代までどうたらこうたら能書きあったらしいが、なんのこたあない嘘八百wで、チンケな漁村を帝政ロシアが不凍港目指して開発しだして、それを日本が自衛戦争により排除し、50年かけて都市にしたというわけだ。それを1945年からチャイが廃墟にして、なんとか整備しだしたのはこの5年かそこいらだろう。それも当初は無能な文革世代がイニシアチブとったから、最初の悲惨なお化屋敷がこのあたりに残っているというわけだ。
この近辺には日本式の住宅がぽつぽつ残っている。二軒長屋である。ドアが開いていたので覗いて見ると、玄関から上がり口は板張りになっていた。土足で出入してるらしく、無残に磨り減り穴が空いていた。塾長の話では、労働公園近辺が一番の日式住宅(邸宅)が残っているらしい。多分満鉄の上層部がその当りに住み、ここは中層部住宅街で、我が家の近辺は元長屋(アパート群)があったらしいから、新入社員というかその他大勢の社宅だったのかも知れない。市中心部から同心円を描くとそのような構図になるのではないか。塾長が言うには、日本時代を知っている古老は、あのまま日本人が居てくれたらとか口走るらしい。ごもっとも、である。満洲=北東亜細亜合衆国の夢は13年で潰えた。石原莞爾の当初構想通り、関東軍全員満洲国帰化してたらどうだったかな...
帰りに、5年ほど晒してあるという10階建てほどの建て掛けのビル脇を通った。最上部に砲弾かなとイミジクモ塾長が言ったw、なんだかわからん施設がのっかっている。それがレンガ積wなのである。鉄筋が入ってるのか?多分工事中止命令でも出たのだろうw
そういえば、10何年前、ハルビンで開発区に見学にいったとき、それこそ30階だか40階だと説明を受けた建築中のビルが、煉瓦積みでやってたのを見たよなw あれってうまく「積み木」できたのだろうか?40階w またハルビンの家の隣で住宅突貫工事で夜中作業やってうのたまたま目撃したのだけれど、ただ煉瓦積んで2階の床は鉄板敷いてたような気がしたねw 四隅で煉瓦の幅だけで支えてるのかなw 地震がないからいいんだってな説明聞いたような気がする。
うっかり散歩が長引いてしまった。1時半に塾に着いて午後の部を始めた。男性2人に女性1人。日本電○と地場空調メーカー勤務。25歳大連大學卒と31歳瀋陽航空工業大學卒。日系企業勤務の31歳の彼は一昨年から一年間日本に研修に行った経験がある。
散歩で見た風景に何やらムシャクシャして、ちょいきつい講義になってしまったようだ。
1時半から5時ちょいまえまでやってお開きにした。

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