5月21日(金曜日)午後9時半、加瀬俊一(としかず)氏死去。101歳。
2004年6月15日「さて明日はウォーキング大会だ」なんてことノーテンキに思ってたときに、加瀬さん(若いイメージしかないからw)亡くなってらしたのネ。でも、101歳かよぉ〜、すげぇなぁw。大往生じゃん。
別に、知人でも知り合いでもなぃんですけどさ、でも多分みんな、へぇ〜あのひとぉ〜ってな感じで「知ってる」はずだよ。
特におぢさんらは入試で日本史と世界史が必須だったしね、最近も二科目必須に戻ったのかな。
1945(昭和20)年9月2日、ミズーリ号艦上にて降伏文書に調印、ってな写真、山川日本史とか全部の日本史教科書に、また世界史教科書にも載ってたはず。
重光葵(まもる)外相が日本国代表(ゴミン、当時は大日本帝国ですネw)で署名してるシーン。右となりに、スカッと洒落た感じで外相の杖を預かって見守る若い随員。
このひと、ですよん。
中公文庫で、この当時のことから、戦前の松岡洋右(ね!歴史的人物と面識あるんだもんなぁw、参るよ)のこと書いてるのが出てて、そこの見開きに写真載っててさ、当然若いんだわ。その印象が強いんで永遠にこの名前ではこの写真が思い出されるというわけかな。同じ中公文庫では重光葵の「昭和の動乱」もあったね。上海での朝鮮人テロリストによる爆弾(手榴弾かな)投擲事件に遭遇して片足失って、以来杖をついていた。その杖をあの写真では加瀬さんが預かっている。
とにかく松岡洋右外相の秘書官時代はヒットラーにスターリンにも会ってる(本にそのとき彼らはどう振舞ったかとか印象書いてある!)しさ。だって三国同盟に日ソ中立条約の交渉・署名に立ち会ってるんだもんなぁ。その後は東郷茂徳外相秘書官兼北米担当課長兼務(!)。日米交渉打切り通告覚書を起草。トラ・トラ・トラみましたぁ。野村大使がハル国務長官に、真珠湾攻撃の「後で」手渡す文書。あれ、この人、起草したんですねぇ。
次の重光葵外相時代は、ポツダム宣言受諾文を英語で起草。そして例の写真にある重光全権大使の随員として参列...。
うわぉ、まさに歴史の証人ってのはこういう人のためにある言葉。(本多勝一の「中国の旅」なんてなもん、ここで思い出すなんてのはそれだけ野暮=原義、でネw。ついでに臭いオーバーアクションのこりあんばーちゃんもナw)
しかし、もっとすげぇなぁって思ったのは、直前まで「鎌倉清話」ってな連載してたんだってさぁ〜。とにかく、昔のしとは、すげぇ。101歳で、ボケてなかったのか...。
「勝海舟の氷川清話、福沢諭吉の福翁自伝などに匹敵するほど面白い」ってさぁ。
7月に光文社から単行本になる。
ニョウボに買ってきてもらお。
...2002年11月からかな、大連の特に中山広場の周りの歴史的建造物には、来歴を示すプレートが掲げられるようになってるようです。
いまのところ一番外れが、人民広場の「人民法院」かな、ここにもありましたね。まだ確認してないけど、五四広場先の鉄道車両工場にもあるかも知れません。だって、あそこには工場か事務棟正面には「満鉄のマーク」がドンと健在ですもんw。
ま、今度折を見てメモってきますけどね、なんたらってナ「侵略」とかダレたことw、書いてあるようなんですわ。ま、ハルビンなんかより「押さえ」は利いているようですが、ネ。
5月12日以降、アカシア散策で旧市内隈なく巡ったのですが、生憎そのときは道路の脇でなにやら工事中でして、街路樹アカシアの根元の山盛りできててなんでまたよりによってこんな時にやってのかなぁと思ってたのでした。
それがまぁ「日本時代wの暖気パイプの取替え工事」だったらしいんですねぇ。「終戦」からでも59年ですからねぇ。半年間フルに働いてるパイプなわけでそ。へたしたら70年超じゃないですか。。。
発電というより送電設備のロスが多いとか記事みたし、なんちゅうか、アンバランスの一言ですなぁ。
----------------------------AM5:40
陽はでてるけど、午後からさわやかになってきましたか。心地よい風が窓から吹きこんできます。
華南は梅雨入り宣言のようですかね。大連の週間予報ではやはり雨マークだらけなんですが、今日はそんな気がまったくしませんです。
テレビでは長江(揚子江)上流の洪水の様子がでてました。黄河の絵もでてましたね。そもそも浚渫なんてなことやってんのかなぁ。年中行事のごとくにほったらかしの印象ですけどね。
昨日たまたまヤフーアジア部屋に蘇州の日本人留学生がいたね。で、どう?ったら蒸し暑いよう。東洋のベニスって言ってたけど、水は流れてる?、んにゃ、臭いwってサ。生活用水そのまんま流し込んでるんかなぁ、それこそおおむかしからw。
四川省成都で留学生かな教師かなやってる日本人青年のサイト、結構盛況でたまに寄らせてもらってる。どうも前職は旅行会社勤務だったようで、各地への旅行記もなかなか辛辣で新鮮だね。他にないのが「支那名勝地」での自分の写真の脇に、同じようなまたはそれ以上の、でも日本人にとっちゃあごく当たり前に身近な日本の景色の写真載せてるのね。これ、すごく共感しましたネw。
別に、知人でも知り合いでもなぃんですけどさ、でも多分みんな、へぇ〜あのひとぉ〜ってな感じで「知ってる」はずだよ。
特におぢさんらは入試で日本史と世界史が必須だったしね、最近も二科目必須に戻ったのかな。
1945(昭和20)年9月2日、ミズーリ号艦上にて降伏文書に調印、ってな写真、山川日本史とか全部の日本史教科書に、また世界史教科書にも載ってたはず。
重光葵(まもる)外相が日本国代表(ゴミン、当時は大日本帝国ですネw)で署名してるシーン。右となりに、スカッと洒落た感じで外相の杖を預かって見守る若い随員。
このひと、ですよん。
中公文庫で、この当時のことから、戦前の松岡洋右(ね!歴史的人物と面識あるんだもんなぁw、参るよ)のこと書いてるのが出てて、そこの見開きに写真載っててさ、当然若いんだわ。その印象が強いんで永遠にこの名前ではこの写真が思い出されるというわけかな。同じ中公文庫では重光葵の「昭和の動乱」もあったね。上海での朝鮮人テロリストによる爆弾(手榴弾かな)投擲事件に遭遇して片足失って、以来杖をついていた。その杖をあの写真では加瀬さんが預かっている。
とにかく松岡洋右外相の秘書官時代はヒットラーにスターリンにも会ってる(本にそのとき彼らはどう振舞ったかとか印象書いてある!)しさ。だって三国同盟に日ソ中立条約の交渉・署名に立ち会ってるんだもんなぁ。その後は東郷茂徳外相秘書官兼北米担当課長兼務(!)。日米交渉打切り通告覚書を起草。トラ・トラ・トラみましたぁ。野村大使がハル国務長官に、真珠湾攻撃の「後で」手渡す文書。あれ、この人、起草したんですねぇ。
次の重光葵外相時代は、ポツダム宣言受諾文を英語で起草。そして例の写真にある重光全権大使の随員として参列...。
うわぉ、まさに歴史の証人ってのはこういう人のためにある言葉。(本多勝一の「中国の旅」なんてなもん、ここで思い出すなんてのはそれだけ野暮=原義、でネw。ついでに臭いオーバーアクションのこりあんばーちゃんもナw)
しかし、もっとすげぇなぁって思ったのは、直前まで「鎌倉清話」ってな連載してたんだってさぁ〜。とにかく、昔のしとは、すげぇ。101歳で、ボケてなかったのか...。
「勝海舟の氷川清話、福沢諭吉の福翁自伝などに匹敵するほど面白い」ってさぁ。
7月に光文社から単行本になる。
ニョウボに買ってきてもらお。
...2002年11月からかな、大連の特に中山広場の周りの歴史的建造物には、来歴を示すプレートが掲げられるようになってるようです。
いまのところ一番外れが、人民広場の「人民法院」かな、ここにもありましたね。まだ確認してないけど、五四広場先の鉄道車両工場にもあるかも知れません。だって、あそこには工場か事務棟正面には「満鉄のマーク」がドンと健在ですもんw。
ま、今度折を見てメモってきますけどね、なんたらってナ「侵略」とかダレたことw、書いてあるようなんですわ。ま、ハルビンなんかより「押さえ」は利いているようですが、ネ。
5月12日以降、アカシア散策で旧市内隈なく巡ったのですが、生憎そのときは道路の脇でなにやら工事中でして、街路樹アカシアの根元の山盛りできててなんでまたよりによってこんな時にやってのかなぁと思ってたのでした。
それがまぁ「日本時代wの暖気パイプの取替え工事」だったらしいんですねぇ。「終戦」からでも59年ですからねぇ。半年間フルに働いてるパイプなわけでそ。へたしたら70年超じゃないですか。。。
発電というより送電設備のロスが多いとか記事みたし、なんちゅうか、アンバランスの一言ですなぁ。
----------------------------AM5:40
陽はでてるけど、午後からさわやかになってきましたか。心地よい風が窓から吹きこんできます。
華南は梅雨入り宣言のようですかね。大連の週間予報ではやはり雨マークだらけなんですが、今日はそんな気がまったくしませんです。
テレビでは長江(揚子江)上流の洪水の様子がでてました。黄河の絵もでてましたね。そもそも浚渫なんてなことやってんのかなぁ。年中行事のごとくにほったらかしの印象ですけどね。
昨日たまたまヤフーアジア部屋に蘇州の日本人留学生がいたね。で、どう?ったら蒸し暑いよう。東洋のベニスって言ってたけど、水は流れてる?、んにゃ、臭いwってサ。生活用水そのまんま流し込んでるんかなぁ、それこそおおむかしからw。
四川省成都で留学生かな教師かなやってる日本人青年のサイト、結構盛況でたまに寄らせてもらってる。どうも前職は旅行会社勤務だったようで、各地への旅行記もなかなか辛辣で新鮮だね。他にないのが「支那名勝地」での自分の写真の脇に、同じようなまたはそれ以上の、でも日本人にとっちゃあごく当たり前に身近な日本の景色の写真載せてるのね。これ、すごく共感しましたネw。
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