2004/07/11 (産経新聞朝刊)
【双方向プラザ】懐かしの満州唱歌 「土にぬかづけ」歌った友と再会を「秋はさんざし…」題名は ( 7/11)

【読者から】産経新聞に満州唱歌の記事が、たびたび掲載されているのを見て懐かしく感じています。私は父の仕事の関係で、昭和15(1940)年に満州(現中国東北部)へ渡り、竜鎮や鞍山に住みました。そのとき、国民学校の校長先生に習った「土にぬかづけ」という歌が忘れられません。当時の同級生とも連絡を取りたいのですが。 元自衛官 江原雅美さん(71)=埼玉県日高市

満州唱歌は、日本人の子供たちが「満州の地に愛着を感じられるように」と、土地の自然や風習などを織り込んで作られた独自の唱歌です。大正期から終戦までに、百曲以上が作られました。山田耕筰作曲、北原白秋作詞の名曲「待ちぼうけ」や「ペチカ」も満州唱歌です。

江原さんが覚えていた、「土にぬかづけ」は昭和初期に改訂された「満洲唱歌集 尋常小学第五学年用」などに収録されています。
《土にぬかづけ、満洲野の土に。(中略)草にぬかづけ、満洲野の草に…》
歌には、当時の日本人の満州への強い思いが込められているようです。作曲者や作詞者は、分かっていません。

江原さんは父親が関東軍の軍人で、十七年から十九年まで、北満の竜鎮にあった在満国民学校に在籍していました。

その校長を務めていた永谷馨一先生(故人)と奥さんから、この歌を習ったそうです。「とても満州らしい歌で、当時、よく歌っていた」といいますが、江原さんは一番の歌詞だけ(全部で三番まで)しか、記憶していませんでした。

竜鎮の国民学校は全校生徒が約四十人の小さな学校。先生も永谷校長を含めて二人だけでした。子供たちは、軍人や満鉄関係者の子弟のほか、青森県から来た開拓団の子供たちがいました。(ほぇ〜、こんな奥地まで現在より遥かに大きな規模ですね。当時の移民策が窺われます)

その関係で、江原さんが青森に勤務していた約二十年前、国民学校の同窓生十六人が集まりました。だがその後は、消息も途絶えがち。江原さんは、「ぜひ連絡を取りたい」と話しています。

これとは別に、東京都小金井市の荒川明夫さん(六八)ら二人から問い合わせをいただきました。《秋はさんざし実が赤く、遠くて静かな青い空。秋はかささぎよく鳴いて…》

このような歌詞を記憶していますが、題名が分かりません。十七年ごろから終戦にかけて、長春や公主嶺の国民学校で習ったそうです。情報をお持ちの方は、本欄までお知らせください。(特集部 喜多由浩)


ペチカなんかは、真っ先に帝政露西亜の雰囲気色濃い哈爾濱(ハルビン)思い出すネ。

赤いさんざしの串刺、昨秋初めて食べたね。飴で包んでオブラート一枚巻くのかな。その場で作ってくれるんですよ。甘酸っぱいのね。

出来合いのを、自転車の前の竹束ねたようなのに刺して売りに来るのは、小学校終鈴見計らってなかなか商売ッ気ありましたね。子供たちも出きたて旨いの知ってるからなかなか買わないんだけど、我慢できなくてネダル子も結構いて商売にはなってる様子でしたですね。

「遠くて静かな青い空」...うわぁ、これは全く哈爾濱郊外のイメージです。北満洲ですね。

「鞍山(アンシャン)」は瀋陽(当時は奉天と言っていた)から大連よりの大きな街ですが、「竜鎮(ロンチェン)」って知らなかったので地図出して探したら...

こりゃすごいわ。哈爾濱より遥か北、小興安嶺山脈麓ですね。
それ越えると黒竜江(露西亜名アムール川)挟んで向かいはブラゴベシチェンスクの黒河(ヘイホー)ですわ。

北満も北ですねぇ。冬はマイナス40度くらいの世界じゃなかったんでしょうか。今は日本人なんて住んでいるのかしらん?

外地の国民学校ったら今の「日本人学校」にあたるのかな。瀋陽には駐在員の家族で学齢児童が2年生から6年生まで計7人しかいないみたいで、普段は国際学校とか現地校に通ってるなんて地元情報誌に出てましたね。今年から「瀋陽日本人小学生学習会」なんてのがやっとできたみたい。

ふ〜ん、瀋陽ったら遼寧省の省都で、日本領事館あるのにね。
大連はここの「駐在官事務所」という建前なんですが、これじゃ逆ですね。

とにかく大連日本人学校の小6中2の26名の生徒たちが、修学旅行で瀋陽に行って励まし会開催したんだそうです。

ここいら、もちっとフォローが欲しいところですね。

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