宮崎正弘氏のHPより
http://www.nippon-nn.net/miyazaki/travels/
■ノモンハンの現場はいま(2003年9月下旬)
人の数より羊が多い。(略)ハイラルは内モンゴル省ホロンバイル(呼倫貝爾)市の「一地区」、蒙古族に配慮してハイラル市をホロンバイル市とも言うから現代中国の行政区分はややこしい。ともかくここがノモンハンへいたる旅の拠点となる。
ハイラルの宿舎を早朝にでて南西へ二百キロ。新巴爾虎左旗(シンパルフーツォチ)という町へでて、今度は南西へ67キロ。諾門汗布日徳(ノモンハンフリテ)という人口数百の集落がある。取りあえず目指したのはそのあたりである。
周り一面は「草の海」。ホロンバイルの産業は牧畜。それ以外には若干の鉱山業と乳業食品の工場しか目に付くものがない。
果てしなく地平線が続き、起伏がなだらかな丘が所々で視界を遮るが、その先は蒼天。
空気のうまいこと。しかも一帯が牧草地で、近郊に猫の額ほどの野菜畑がある。
お隣の黒龍江省のハルピン周辺部から東北にかけては同じ大草原でも麦、大豆、ジャガイモ、サトウキビを栽培し、最近は日本の商社が持ち込んだ技術でジャポニカの稲作もしている(遼寧省では日本酒用の稲作も)。
しかしハルピンから毒ガス騒ぎのチチハルを越えて西の内蒙古省まで来ると、巨大壮大広大なホロンバイル大平原となり、麦さえとれない不毛の大地が拡がるのだ。
ノモンハンを説明するには、まずこの「大地」について記述する必要があるだろう。
日本の建国した満州。信州などからかき集められた満蒙開拓団は、この「北満」と呼ばれた地へも多数が入植した。
所謂「関東軍」は司令部を新京(現在の長春)に、北の前線拠点となる師団司令部をハイラルに置いた。ハルピンに化学部隊の本部を、チチハルなどに支部を置いた。
当時、ソ連は満州を窺って大兵力を満・ソ・蒙国境へ張り付けた。このため防衛の最前線が孫克、黒河、満州里、ノモンハンとなる。
防衛本部はハイラルで、五つの地下要塞を含む大陣地を構築した。これら一帯の国境で関東軍とソ連軍とが睨み合ったのである。
ともかくノモンハンの現場をみよう(略)旧日本軍の見張り台(前方面はモンゴル)があらわれ、その前におよそ三十の空砲弾で囲いがある。なかにも空砲弾を並べて「和平」と陳列してあるではないか。
「ここでソ連軍およびモンゴル軍と日本が戦った」と若い人民解放軍の兵士が説明した。
(略)
関東軍が死守せんとして激闘の続いたハルハ河は、現在モンゴル領土に編入されている。このため中国側からは旧日本軍の主力陣地址とその周辺しか行けない。66年前のあの死闘は、現地では完全に風化している。
★ノモンハン事件は日本の惨敗だったか?
なぜ現場を見たいと思ったか、理由はこうである。ノモンハンは日本の惨敗であると五味川純平も司馬遼太郎も半藤一利も書いた。
作戦を立てた張本人のひとり辻政信の著書「ノモンハン」にも「手足を縛られた戦い」であったとか「戦争は負けたと思う方が負けたのである」。作戦を指導した服部卓四郎・大佐も「失敗の原因は軍中央と現地軍の間の意思不統一にあった」などと釈明している。
関東軍の暴走は史実だが、それを理由に参謀本部は自分たちの無能を転嫁しようとした側面も考慮しなければならない。要するにノモンハンでの”惨敗”に対して最終的に誰も責任をとろうとはしなかった。この無責任体質は、現在の官僚制度にそのまま受け継がれているのだが。。
ともかく日本軍はハルハ河を巡る戦闘でほぼ一個師団を喪い、東京の指令によってソ連軍有利のまま休戦に至った。
ソ連側の近代的装備、その火砲、戦車の物理的破壊力を前に破れ、敵兵力の情報さえ関東軍は事前に掴んで居なかったことなど、批判の材料は山と積まれた。
ところが90年にソ連が崩壊し、直後から機密情報の公開がある。驚くほどの真実が明らかになる。旧ソ連の軍事機密のなかからノモンハンでの戦闘の結果が出てきたのだ。
日本軍 死傷者 17405名
ソ連軍 死傷者 25655名
とする真実の数字が機密文書には並んでいた(この数字はモスクワ軍事出版社刊「ロシアの記憶」、1998年より引用)。
日本側の戦闘参加者は2万人だからほぼ壊滅に近かったことは事実にせよ、ソ連側は総兵力20万人に加えて、大量の航空機、速射砲、戦車が投入されていた。日ソの軍事力を単純に比較すればソ連側が日本の10倍。戦闘効率からいえば日本側が勝利したことにならないのか。
とくにソ連の戦車装甲車およそ800両を日本軍は破壊した。一方で、日本軍の戦車の損害は29両。戦車戦ではソ連戦車66両を破壊したが、日本側戦車の損害はゼロだった。
志気は高く、次の本格反撃を前に、東京の参謀本部から作戦の継続中止命令が届いた。
そのまま両軍は睨み合い、一方で日本は主力を南方戦線に投じはじめた。かといって関東軍はソ満国境における警戒を緩めるわけにはいかなかった。「日ソ不可侵条約」は事実上、空文化していた。
★凄い!のひとことにつきる「ハイラル日本軍要塞」
1945年8月9日、ソ連が満州に侵攻してきた当時、第23師団が北満一帯を守備しており、各地でソ連軍の侵攻を暫時阻止した。ハイラルには独立混成第80師団が強固な陣地を確保し迎撃体制を敷いていた。
ハイラル郊外に当時の日本軍の地下要塞が、数年前から公開されている。「日本関東軍海拉爾築累地域」と呼ばれ、市内から僅か20分ほど。平地から五十メートルほど高い台地を要害にして、なかの岩盤をくりぬき何本もトンネルを掘った。 陣地址は深い戦車堀、玄関の説明文は中国語、ロシア語、英語、そして日本語が並ぶ。
「この要塞の規模は軍人の誰もが腰を抜かすほどのものだ」と中国語のパンフには書かれている。トンネルの見学料金は20元。
しょうれいの気が取り付いたような気味の悪い地下を潜っていくと、底は意外と深く、幾つもの兵員宿舎、台所、通信室などがあった。少なくとも、この公開された北山陣地だけでも数千が寝泊まりできたのではないのか。
筆者は強固な陣地に感嘆してしまった。いかなる罵詈雑言を説明文に書いていようとも、中国がこれを公開したことは、過去の日本軍が如何に強かったかの逆証明になっている。
2004年は日露戦争の勝利百年。多くの日本人が忘れかけていたノモンハン事件現場の今日の様子である。
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