2004/08/15 (産経新聞)
【正論】杏林大学客員教授・田久保忠衛
真の平和は祈るだけでは望めず疑わしい「加害者の視点」の論理

≪訳知り顔の反戦平和企画≫

ちょうど三十年前に旧ソ連政府の圧力で上映禁止になった幻の名作「氷雪の門−樺太一九四五年夏」をビデオで観た。八月十五日の日本政府によるポツダム宣言受諾後も日本軍および日本の民間人に対する悪逆無道なソ連軍の攻撃には目を蔽わざるを得なかった。最後まで通信連絡の義務を果たしながら、ソ連兵の手にかかるよりはと青酸カリを飲んで自ら生命を絶った真岡郵便局電話交換手九人の女性を描いたシーンに涙しない者はいないだろう。

しかし、終幕に登場する「真実を見つめ、永遠にいくさなき世界平和の確立を…」との文字はすこぶる気になった。戦いを嫌い、平和を祈ることに異論を唱える人はいないが、それほど貴重な平和を脅かそうとする国家やテロリストにどう対処するのかの回答はない。この映画を観る人々を自動的に「反戦・平和」のパシフィズム(無抵抗主義)へと誘う魔力を秘めた表現ではないか。

今年も例外ではないが、終戦記念日に向けて繰り広げられるテレビ、新聞の企画物には沖縄戦、広島、長崎の原爆被害などの悲惨さを取り上げたものが多い。これで無力感に陥る人々の数は少なくないと思う。多くのナレーションに埋め込まれているのは日本の軍部を悪者にした「加害者の視点が必要だ」との訳知り顔の解説だ。

≪忘れてならないソ連参戦≫

ただ、自虐史観に凝り固まった向きにとって都合の悪いのはもう一つの終戦史、つまりソ連軍による旧満州、樺太、千島の侵略とそれに付随した悲劇であろう。

絶体絶命の危機に追い込まれた日本はこともあろうにソ連に終戦工作を依頼した。ヤルタ密約以前から日本攻撃をほのめかしていたソ連は密約をまたとない口実に使った。

当事国の日本を抜きにして日本の領土の帰属を話し合った悪名高いヤルタ協定は戦後、米英両国によって正式の意味はないと否定されている

ソ連は広島への原爆投下を眺め、長崎にも投下される八月九日午前零時を期して百六十万の大軍を満州正面に投入し、次いで樺太・千島を侵略した。日ソ中立条約を無視し、ポツダム宣言を受諾した後は満州、北朝鮮、樺太、北方四島を含む千島列島の占領を行った事実を我々は銘記しておく必要がある。

約六十万人の関東軍は停戦後にシベリアを中心としてモンゴル、中央アジア、ヨーロッパロシアにわたる収容所大小合わせて二千カ所に抑留され、樹木の伐採、炭鉱作業、鉄道建設など過酷な労働に従事させられた。抑留期間の最長は十一年、飢えと寒さと病で六万人が生命を失った

中学校の教科書には、「歴史教科書をつくる会」編のものを除いて、この国家的犯罪の記載がない。まさか、「加害者の視点がない」との理由で編者が意図的に事実を割愛したはずはなかろうが、どうであろうか。

忘れてならないのは日本の民間人の悲惨な被害である。中山隆志・元防衛大学教授によると、旧満州の在留邦人は関東州を含めて約百五十五万人、北朝鮮二十八万人、樺太四十万人、千島一万六千人だった。

これらの人々がどれだけの悲痛、地獄の苦しみを味わったか。中でも婦女子に対する暴力がいかに凄まじいものであったか。「氷雪の門」はほんの一例にすぎない。

≪事実だけは語り継ぐ責務≫

独立行政法人の平和祈念事業特別基金が長年発行し続けている体験者の文集「平和の礎」は、事実を訴えている。とりわけ、ソ連国境に近い辺境地区で生活していた満蒙開拓団二十七万人の悲劇は、とうてい筆舌に尽くし難い。

麻山事件を知っている人は少なくなっていると思う。旧東安省の哈達河(ハタホ)開拓団一千人が荷馬車で牡丹江へ避難の徹夜行軍をし、麻山に差し掛かったとき、日本軍に協力していた満州治安部隊の反乱部隊とソ連軍戦車双方の攻撃を受けた。団長、貝沼洋二氏ら幹部は、敵によって婦女子が辱めを受けるよりは自決を選ぶほかなしと判断し、男子十数人が女子、子供四百数十人を突き殺した。

先の戦いには日米、日中、日ソなどあまりにも多面的関係が多すぎるが、日ソ間の出来事を忘れるわけにはいかない。

徒に反露感情を掻き立てたり、特定の国に対する憎悪感を育てる教育をする愚は厳に戒めるべきだが、事実だけは語り継いでいく義務がある。

そして、真の平和を望むのであれば、お祈りだけでなく平和の敵に対する備えを怠らず、「加害者の視点」などという一つ覚えを捨て去らなければならない。八月十五日の意義を再考したいのである。(たくぼ ただえ)


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