東大紛争収拾に尽力、元学長・林健太郎氏が死去 91歳

元東大学長で元参議院議員の歴史学者、林健太郎(はやし・けんたろう)氏が十日午後一時五十分、心不全のため東京都杉並区善福寺一ノ二九ノ二三の自宅で死去した。九十一歳。東京都出身。告別式は九月十三日午後三時から東京都港区芝公園四ノ七ノ三五、増上寺光攝殿で。喪主は長男で三井不動産副社長、洋太郎氏。

(08/17 05:00)



産経抄(2004/08/18)

▼九十一歳で世を去った元東大学長で元参院議員の歴史学者・林健太郎氏の人生を一言でいうとすれば“複眼の信念居士”か。筋金入りの保守の論客だったが、その筋金は保守とリベラルの“合金”のように出来上がっていた。

▼林さんは近現代史教育における日本悪玉史観を是正する「新しい歴史教科書をつくる会」の賛同者だったが、それでいて大東亜戦争肯定論を批判した。「アジアを解放した有意義な戦争だったという気には到底なれない」と、『正論』誌上で中村粲(あきら)氏と大論争をやったりした。

昭和四十三(1968)年の東大紛争(メキシコ五輪の年である)では文学部長として全共闘の学生たちと団交、百七十三時間に及ぶカンヅメでも要求を拒否。あきらめた学生が“解放”した直後に倒れ入院、というがんばりはいまも語り草だ。

▼『諸君!』の平成三年十一月号でソ連共産党解体を受け、「『ユートピア』の葬送」と題する鼎談(ていだん)を猪木正道、武藤光朗氏とやっている。林さんは口火を切って「たいへん感激しました。それで歌を詠みました。『御民われ生ける験(しるし)ありベルリンの壁毀(こぼ)つ日に遇へらく思へば』と」。

▼猪木さんがハハハ、平成万葉集に入りますねと笑うと、「そこで今度は『御民われ生ける験ありクレムルの邪(まが)つ神堕つる時に遇へれば』としました。私はこれまでマルクス主義はよくないと言っていたけれど、こんなふうにうまく倒れるとは。感無量です」。

▼しかしそういう林さんも「若き日は『改造』という雑誌のソ連五カ年計画特集を読んでマルクス主義に本気でかぶれたんです。人間解放という新しい宗教の独自の理論にやられて…」と語っている。若者がそういう思想の洗礼を受けた時代は、いまや確実に過ぎ去った。


過渡期の人だったよな。

若いときに入った考えは、すっかり拭い去るのは難しい。
せいぜい「修正」止まり。

文学部の吊るし上げのとき、三島由紀夫と阿川弘之が応援に駆けつけようとしたら断ったエピソードを読んだことがあるな。そのとき三島は鉄扇もっていったんだった。

このとき、林と三島・阿川なんてまるっきり反対、でもないがそういう考えの違いあっても、「あいつは根性がある!」みたいな価値観で同窓生(3人とも東大。文学部国文学と西洋史学、法学部)の難儀に個人として馳せ参じたんだもんな。



(偉人データベース)
●歴史学者
一九一三(大正2)年東京都生れ。東京帝国大学西洋史学科卒。一高教授、東大助教授を経て、同大教授、同大総長。参議院議員にも。現在東大名誉教授。

ドイツ近・現代史を専攻。最近は、村山政権の成立直後に、この政権を「五五年体制の延長」とする考え方に疑義を呈し、「ここに現れた事態は新しいものである」と断言。

また、戦前の歴史について「不戦条約」や「満州事変」の評価について、小堀桂一郎氏、中村粲氏などと論争。

戦前の不戦条約は一定の評価をすべきものであり、満州事変および太平洋戦争は侵略行為であることを認めるべきだと、「歴史の事実」を強調する立場をとった

六九年の東大紛争のさい、学生によって軟禁されたが、一歩も引かず、むしろ立場を超えて敬意を集めた。いまも堅固な姿勢と洞察力は衰えるところがない。


ご冥福をお祈りいたします。

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