支那といったら、加地先生。
2004年8月20日2004/08/20 (産経新聞)
【正論】同志社大学フェロー、大阪大学名誉教授 加地伸行
中国人にナショナリズムはあるか
国家への忠誠よりも血縁が優先
≪人々には希薄な国家意識≫
去る八月七日、サッカー・アジア杯の決勝戦が北京において開かれ、日本と中国とが対戦したが、我が国の国歌が演奏されたときの中国人観客の態度が礼節を弁(わきま)えないものであったことは周知のとおりである。
もっとも朝日新聞など左翼系諸団体は、国旗・国歌に対して起立と歌唱を求められても、思想・良心の自由があるから従わなくてもいいと日ごろ主張しているので、中国人のあの無礼を正しいとすることであろう。
一方、その無礼を批判するまともな意見が多かったが、一つ気になることがあった。それは、あの無礼を中国人の反日的ナショナリズムの表れと見る点である。
しかし、そのような見かたには疑問を抱く。と言うのは、ナショナリズムの意味にもよるが、いちおう民族主義といった一般的意味とした場合、中国人にはそのようなものは乏しいと思うからである。
皇帝制の中央集権的統一国家が成立した西暦二二一年から、それが崩壊した西暦一九一一年までの長きにわたって形成された中国社会の構造上、人々においてナショナリズムが起こる余地はなく、ナショナリズムへの無感覚は今も続いている。
(全く同感の禿同でして、「エゴイズムの焦点あったところ」が結果として一見ナショナリズム(正確には「国民主義」だと思うが)のような体裁を、一時的にとるだけと思われる。つまり「共通の敵」が不在になるとすぐ、バラけるw)
具体的に言えば、七世紀以降、科挙官僚(高級公務員試験合格者)が行政(司法・立法を含む)を担っていたとき、科挙官僚は確かに皇帝(国家)に対して忠誠を誓い、ナショナリズムを生み出したかに見えた。
(選良=少数者から多数に広まらないでは、それは個々の英雄的「行為」に過ぎず、多数派・趨勢の「主義」とまで言えないだろ)
しかし、極めてわずかな科挙官僚以外の、皇帝と関係のない圧倒的大多数の一般人には国家への忠誠などなかった。あるのは、血縁における最高道徳である孝誠(孝行)であり、これは国家と直接には関わりがなかった。
人々における希薄な国家意識−そこからよりする中国人の状態を近代中国の父、孫文は外国人の批評を引いて見事に表現した(『三民主義』)。
〈散沙(さんさ)〉すなわち、ばらばらの砂、と。
≪革命後も香港返還求めず≫
日本は異なっていた。江戸時代、各藩の行政官僚は末端に至るまで世襲の多数の武士であり、各藩主への忠誠があった。明治維新後、その忠誠感覚を基礎に、近代的国民国家における国家意識としての忠誠が根づく。
それは、封建時代の忠誠と、近代的国民国家における国家への忠誠との融合であるが、それを結びつけてのナショナリズムを生みだした。だからこそ、明治当時、強国ロシアの横暴に対して戦い、勝ちえたのである。
だが、中国の場合、たとえば中国共産党は一九四九年に政権を握っても、イギリスが統治する香港に対してナショナリズムとしての武力解放をしなかった。香港はアヘン戦争の屈辱的産物ではないか。アヘンを売りつけて中国から富を奪い、かつて〈犬と中国人は入るべからず〉と書いて住んでいたというイギリス人に対して国家として抗議するどころか、条約を守ると称して一九九七年までそのままにして金銭や物資を得る窓口としていた。
そこにはナショナリズムの欠片(かけら)もなかった。
いや、政権だけではない。日本人の場合、明治の留学生のほとんどは帰国し、習得した知識・技術を〈お国(くに)のために〉惜しみなく人々に伝えた。これもナショナリズムであり、その精神は今も基本的に同じである。
しかし、今の中国人留学生はどうか。外国で学んだ知識・技術を祖国のために供するという志があるのかどうか怪しい。大半は留学先の日本やアメリカで就職することを優先している。たとい待遇が悪くとも、帰国して祖国のために歯を食い縛って尽くす覚悟の人物がどれだけいるというのであろうか。
(何も留学生まで広げなくても、普通の学生・会社員でも、先輩の教え<特に日系企業での大先輩からの個人的指導さえ>を「わたくし」して決して後輩の面倒なぞ看ず、てめぇの給料上げの材料にしか思ってないから頻繁な転職繰り返しの「企業定着率」なんてな概念不存在の支那労働市場があるわけね。そこからだって「ナショナリズム」の端緒がまず不存在でそ)
≪我が国ではなくオラが国≫
中国人は、依然として〈己(おの)れの利益のために〉生きる、ばらばらの砂でしかない。そこからどうしてナショナリズムが生まれえようか。
中国古典の文には、〈己れ〉を表すことばとして「我」と「吾」とが常用される。現代中国語では「我」が使われ、「吾」は文語となっているので話は別。
古典文では両者に違いがある。
「我」は相手を意識するので、たとえば「我が国」とは「汝(なんじ)の国・彼(か)の国」を国として認め、自国も国として自覚した表現である。一方、「吾」は自分のみの意識なので、もし「吾(わ)が国」と言えば、「オラが国」のことである。
(「我等」がない)
サッカー場での中国人のあの狂態は、自と他とを認めたナショナリズムを踏む〈我が国〉の意識ではなく、〈オラが国〉のオラが利益しか知らない壮大な世間知らずのままの姿である。
(かじ のぶゆき)
つまり、1930年代の「抗日民族戦線」なんてなものの実態は不存在。国民党蒋介石他4家族よりも「より搾取程度低い」という程度の「けざわ共産党」を支持しただけ、と。
ま、これは朝鮮も同様だが。
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