●名作『こころ』の不可解
同じ頃、夏目漱石が『こゝろ』という小説を書きます。みなさん高校の教科書で読んでご存知だと思いますが、この小説の主人公「わたし」は学生で、「先生」は無職の知識人です。貸家の何軒かをもっていて、その収入で暮らしている高等遊民です。いわばインテリのフリーターですね。

その「先生」は学生の頃に、下宿していた家の娘さんを好きになってしまうのですが、親友のKもまた娘さんを好きになってしまう。Kを出し抜いて娘さんを射止める。裏切られたKは自殺する。

しかし、よく読んでみてもその自殺の原因というのがどうもよくわからない。「先生」自身も親友Kを裏切ったことを何十年も悩んでいて、結局自殺してしまうのですが、こちらもその動機がよくわかりません

『こゝろ』という作品はいったいなにを言いたいのかよくわからない、と僕はかねて疑問に思っていました。

ふたりの高等遊民がただエゴイズムについて悩んでいるばかりで、なんの展開、発展性もない。仕事をもたずお金を稼ぐということなしに世界が存在する、ということじたいがよくわからない。そのよくわからない小説が、百年たったいまでも名作として高校の教科書に載っている、ということもまた疑問でした。

いずれにせよ、『こゝろ』のような自家中毒的観念小説と、『蒲団』のように、自分の身辺でおきたスキャンダラスな出来事を書くことがあたかも神聖な文学であるかのような、ひとつの流れができあがった

後者について言えば、スキャンダラスな出来事がなければわざわざ悶着を起こして破綻してみせ、それを書くというような風潮まで流行り始めるのです。

そのときすでに日本の産業社会は急速に拡大・発展しています。製鉄所や紡績工場ができ、新たに生まれた総合商社は諸外国との交易を活発に始めます。まるでそんな状況とは無関係のような作品が主流となっていくのです。

大正時代から昭和にかけて、先に言ったふたつの流れが合流して日本独特の「私小説」という世界ができあがりました。

文学が国家とか社会とか、あるいは生活から離れていくのです。簡単にいえば、フリーターの文学になっていったのです。

『マガジン青春譜 川端康成と大宅壮一』にもう一度話しを戻しましょう。川端康成は中学生のときに、まさにそういう流れが大きくなっていくさまを目撃しています。

自分も「東京に行って女のひととつきあいたい」と思うようになる。「男女交際」という言葉がありますね。この言葉ってとても古めかしい大げさな言葉だと思いませんか? 「国際社会」みたいな(笑)。なんだかとってもたいへんなことみたいですね。

川端少年は「男女交際」に憧れます。作家になるには田山花袋のように女性とつきあってスキャンダルを起こさないといけないように思ったわけです。それともうひとつ。『こゝろ』の主人公は旧制第一高等学校の学生ですから、まずはそこに行かなきゃならない、と思った。

そんなときです。たまたま東京からくる雑誌を読んでいたら、いまでいう週刊誌のトップ記事になるようなニュースが入ってきました。それは、帝国大学出の文学士と女子大出でしかも高級官僚の娘の心中未遂事件でした。

●国家・社会・生活からの乖離
男は森田草平という漱石の弟子です。たいして売れない作家で、閨秀文学会というカルチャーセンターみたいなところで講師をしていた。その講座に平塚明子(はるこ)という美女が生徒として来てふたりは出会います。

明子は草平に、自分の作品を読んでくれ、と言い、草平は長文の批評を書いて郵送します。そのとき草平は「伝説によればサッフォーは顔色のダークな女であった」と書き添えるのですよ。明子の二重まぶたの西洋的な面立ちとやや地黒の肌が、ギリシャの情熱的な叙情詩人に似ている、とまあ、くすぐったわけですね。すぐに返事がくる。「お言葉のはしばしまで繰り返して、思い乱るることの繁く候」

それからあいびきを重ねるようになるのですが、どうも勝手が違う。草平は故郷に妻子をおいて上京していますから、別の女性をつきあったりして遊んだりして女性のあしらい方を心得ている。

ところが明子は自分はダブルキャラクターよ、などと言ったりする。どういう意味だね、ときくと逆に、なんだと思います? なんて突っ込んでくる

上野精養軒に食事に行ったときも、ウイスキーのグラスをクッと飲み干して、片手で頬を抑えて赤くなりましたでしょう、と見上げる。やにわに草平の手を取って引き寄せる。草平は慌ててキスしたりするんです。

そうとうエキセントリックで変わった女性なのですよ、このひとは。とんでもない女といってもいい(笑)。

そのデートのあと手紙に「むしろ狂(きょう)してみたかったのです」と書いてきた。そのうちになぜかいっしょに死ぬことになってしまうわけ。なぜそうなったのか、ふたりともうまく説明できないのだけれど、草平が明子の禅問答のような返答に惑わされているうちに、そんななりゆきになってしまったのですね。

出発の日、草平はピストルを、明子は弾丸をもってくると約束するのだけれど、明子がもってきたのは弾丸ではなくて母親のタンスにしまってあった黒革の鞘に銀の飾りのある懐剣。家宝の短刀は骨董品的な価値はあるかもしれないけれど、あまり実用的ではありませんね。本当に死ぬ気なのか、怪しいものですよ。

「山か海か」と草平が問うと明子は「山」とひとこと答えたので、ふたりは那須高原に向かいます。明子の失踪に気付いた実家では、その夜、警察に保護願いを出して大騒ぎになります。結局、ふたりは雪のなかにうずくまっているところを捜索隊に発見される。

女子大出の高級官僚の娘と帝大出の文学士の心中未遂事件は、これでもかこれでもかと各紙が競争で報道しました。いまのワイドショーみたいなものですね。「明子は殺してくれと、しばしば森田に迫りしも、森田は未練ありて殺し得ず」など微に入り細を穿っておもしろおかしく書き、「自然主義、性欲満足主義の最高潮を代表する珍聞」と、非難はおもに草平のほうに向かう。

師匠の漱石は世間の風当たりから不肖の弟子をかばって自宅にかくまいます。草平からくわしい経緯を告白させた漱石は、真剣な顔をしながら遊戯しただけじゃないか、と弟子を叱るのですが、明子には強い興味をもつのです。

明子のことを「無意識の偽善者(アンコンシャス・ヒポクリット)」といいます。

「自らしらざる間に別の人になって行動する女」だと。明子は漱石の創作意欲をおおいに刺激したのですね。

そして『三四郎』のヒロイン美禰子が誕生しました。

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