事件は明治41年3月です。わずか半年後の9月、漱石は朝日新聞で『三四郎』の連載を始めます。年末に『三四郎』の連載が終わると翌年の元旦、漱石の斡旋で森田草平の『煤煙』がスタートしました。
『こゝろ』はどうもいただけない、と先ほどいいましたが、漱石は話題づくりの重要性を心得ていました。エッセンスを自分の小説に吸収しておいて読者の覗き見的嗜好を『煤煙』で補った。マーケティングセンスはいいのですよ。
さて、草平の『煤煙』のトーンは、どこか弁解じみていました。
対して明子はというと、求めに応じて徐々に自分の心境や事実関係について新聞や雑誌にコメントを寄せるようになる。いわゆる芸能界というものがない時代ですから、彼女のエキゾチックな容貌もおおいに一役買って一躍スター扱いされるようになった。時代の先端のしゃれたバーかなんかで「五色の酒を飲んでいた」とかなんとか、どうでもいいことさえ世間の話題になって、あげく「新しい女」という形容詞が与えられます。
明子は事件後しばらく静養をかねて信州に身をひそめていました。ある日再び雪山に登る。快晴の青い空、白い峰々、太陽が眼の前、手にとるほどの近さに感じられて、そこで幻覚を見ます。自分が雷鳥になって純白な羽毛の翼を広げて太陽のまわりをはばたいている……。
もう、おわかりですね。彼女が平塚らいてうと名乗って「原始、女性は太陽であった」と創刊誌『青鞜』の巻頭に書くのは、事件から3年後の明治44年9月です。
結局、漱石も草平も彼女を買い被りすぎていたのです。
明子は女子大に入る前から臨済宗の禅寺で修行するのが日課だった。そこでつねに禅問答の課題を与えられていて答える訓練をやっていたのです。
禅問答は、飛躍した論理の応酬でちんぷんかんぷんをよしとするところもありまして……。もし悟りの境地に入りたいならひとりでやればいいのであって、恋愛のなかにもちこまれた草平はいい迷惑でした(笑)。
この一件を知った川端少年は「自分も一度はあんな恋をしてみたいような気がする」と手帳に記しています。一高に入るのが文士の近道、すなわち「男女交際」の可能性が開かれている方角だ、と確信するにいたったのです。
日本はこの時代、日清戦争があって日露戦争があって、たいへんなわけですよ。日清戦争は簡単に勝ったように思っているかもしれないけど、このとき滅ばされるかもわからなかったのです。軍艦の大きさはむこうのほうが大きかった。たまたま中国は衰えていたから勝てたようなものです。
日露戦争だって、日本海開戦のときロシアの艦隊ははるばるインド洋を渡ってきましたから、敵はくたびれていたのです。いずれも運がよかった。
第一次大戦はヨーロッパが戦場でしたから、日本は中国の青島にいたドイツをちょっと叩いただけですんだ。なにしろヨーロッパでは4年も戦争しているものだから物資が足りなくなるでしょう。日本はどんどん輸出をして大儲けをするわけです。バブル景気ですよ。日本のGDPは一挙に拡大した。人口も増えた。江戸時代は3000万人でしたが、日露戦争が終わったころには2倍の6000万人に迫っています。
ところが日本の近代文学は、まるで社会の拡大を無視するかのように、日本独特の私小説というスタイルに閉じこもってしまったのです。
大正時代に菊池寛は高松からでてきて芥川龍之介たちと「第四次新思潮」という同人雑誌を出します。その後に作家として菊池寛は自分の初期短編を一冊にまとめたときに、それを『心の王國』と題しました。
菊池寛は漱石の『こゝろ』を克服しようとしていたのではないか――。そういう仮説を僕はたてました。
文学は産業社会の規模に対抗できるようなダイナミズムをもって成立しうるのではないか。エンターテインメントの拡がりばかりでなく人間を肯定する力強さをもちうるのではないか、と菊池寛は思っていた。
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