憂国の士・三島由紀夫氏は『行動学入門』の中で、“行動の美の典型”として「オーストラリアで特殊潜航艇が敵艦攻撃直前に浮上し、ハッチの扉をあけてを目標確認した将校がいて、哨戒艇が銃弾を浴びせると再び潜行していったという話が伝えられているが、このような場合にその行動の美しさ、月の光、ロマンチックな情景、悲壮感、それと行動様式自体の内面的な美しさとが完全に一致する。しかしこのような一致した美は人の一生に一度あることはおろか歴史の上にもそう何度となくあらわれるものではない」と記した。

この海軍士官こそ、殉忠菊池氏の流れをくむ熊本県山鹿市出身の松尾敬宇中佐(生前、大尉、24歳)その人なのである。

中佐は真珠湾攻撃に次ぐ第二次特別攻撃隊員として、伊22潜水艦より発進、遠くシドニー港の奥深く突入、壮烈な戦死をとげた。

中佐は壮途につく直前(昭和17年3月29日)、両親と兄姉を呉(広島県)に招き一夕を共にすごす。この時、父から菊池千本槍(短刀に柄のついたもの)を贈られる。

その夜、中佐は「俺はお袋と一緒に寝る」と母の懐に寄り添って床に就く。二十四年育て上げ、唯一筋に国に捧げまつろうとする吾が子の肌の温もりに、今宵が最後の夜を予感、春寒を遮るようにその五体をわが胸に引き寄せる母、これが最後の別れとなった。

昭和17年6月5日の大本営発表によれば「帝国海軍部隊ハ、特殊潜航艇ヲ以テ、5月31日夜、濠州東岸シドニー軍港ヲ強襲シ、湾内突入ニ成功、敵軍艦一雙ヲ撃沈セリ。本攻撃ニ参加セル我特殊潜航艇中三雙未ダ帰還セズ」と。

この大胆不敵な作戦は濠州の人々の心胆を寒からしめたが、日本海軍軍人の忠勇武烈に深く感銘した濠州海軍は6月4日、松尾艇、翌5日に中馬艇を引き揚げると共に、艇内から収容した四勇士を6月9日、海軍葬の礼を以って弔った。

この時、敵国軍人に対する海軍葬について非難の声が挙がったが、シドニー地区海軍司令官ムアーヘッド・グールド少将は

勇気は一特定国民の所有物でも伝統でもない。これらの有志は、最高の愛国者である。これら日本海軍軍人によって示された勇気は、誰によっても認められ、かつ一様に推賞せらるべきものである

これら鉄の棺桶に入って死地に赴くことは、最高度の勇気がいる。これら勇士が行った犠牲の千分の一の犠牲を捧ぐる準備のある濠州人が幾人いるであろうか」と全国にラジオ放送して反対の声を制し、海軍葬を執行したのである。

戦後、濠州海軍は松尾艇、中島艇を切半して一艇とし、首都キャンベラのオーストラリア連邦戦争記念館に安置、遺品と共に丁重に展示している。

「この勇気を見よ!」と説明が特筆大書され、内外の参観者に大きな感銘を与えている。

昭和43年4月、中佐の母堂、まつ枝さんは濠州へ答礼感謝の旅に出る。83歳の老母は「訪豪に当たりて」の一文を草した。

『昭和17年5月31日、貴国シドニー港内にて戦死いたしました松尾敬宇の母でございます。当時、戦時中にもかかわらず、世界に例を見ぬ海軍葬の礼を以て厚く葬っていただき、その上遺骨は日章旗で覆い、丁重に遺族へ届けていただいて、10月9日、鎌倉丸(戦時交換船)横浜に着くや全国民の感激はとても言葉に尽くせませんでした。(中略)

ただ貧しい老いの身をかこちながら年ごとの5月31日は遥かに貴国を拝し、感謝合掌しておりました

この度はからずも、松本先生(地質学の泰斗松本唯一博士)始め多くの方々の御尽力を戴き、貴国を訪問、御礼言述べ得ますことは、こよなき喜び、かつ光栄に存じます。』

母堂まつ枝さんは、会う人の全てを魅了する玲瓏玉の如きお人柄で、その上、素晴しい歌人でもあった。 

訪豪の十日間、“勇士の母”として濠州は海軍をはじめ朝野を挙げて、あたかも国賓を迎えるごとく歓迎した。

一行は中佐ゆかりの戦跡を巡るが、狭い湾口を見詰めた母堂は「よくもこんな狭いところを‥‥‥母は心から誉めてあげますよ」とつぶやき、湾内では戦死した6名の勇士の名を心に叫びながら、故郷の押し花、色紙と日本酒を海にまいた。

湾内を見下す断崖からは、中佐の許嫁だった女性から託された和歌二首を記した紙片を海に投じた。その人の真情が母堂の手で手向けられたのである。

昭和43年4月、シドニー港にて故郷の押し花、色紙、日本酒を海に撒く母堂まつ枝さん

 荒海の底をくぐりし勇者らを 今ぞたたへめ心ゆくまで

首都キャンベラの連邦戦争記念館では、中佐の御遺品の数々に涙を注ぎ、愛艇を撫でさすり、菊池神社の神酒と花輪を供えた母堂は、

 愛艇を撫でつつおもふ呉の宿 名残りおしみしかの夜のこと

と、吾子に添い寝をした最後の夜を回想する。

そして館長からは、中佐が最後まで締めていた血染めの千人針などの御遺品が返却された。一行の行く先々に大勢の記者が待ち構えていて、新聞は母堂の各地での写真と詠歌をトップ記事で競って報道したため、濠州国民を感動の渦に巻き込んだ。

まつ枝さんは肥後弁しか話せないために、通訳が困った。
「お母さん、今度オーストラリヤに来るときには、英語が話せるようになって下さい。」彼女は直ぐに応じた。
「今度私が貴国を訪問する時には、日本語を勉強して、日本語が話せるようになっていて下さい。」

またあるオーストラリヤの詩人が、彼女に「我々は詩によって理解し合えます。」というと「その前に日本語を覚えてもらうともっと分かり合えます。」と答えて、周囲を笑わせた。

帰国後、オーストラリヤ人より日本語の手紙が彼女の自宅に何通か届いた。またこの発言が動機となってか、オーストラリヤの高校では、日本語が選択科目に採用されるようになったという。

ある若い記者が、「お母さんは最愛の子供を失ってさぞ淋しい日々を過ごされたことと思います」と同情的な質問をすると、まつ枝さんは応える。「日本では国に忠義を尽くすことが本当の親孝行になるのです。私の子供は大きな孝行をしてくれました。少しも淋しいとは思いません」と。しかし戦死を聞いたときは、悲しみを込めた歌を作っている。

  君がため散れと育てし花なれど 嵐のあとの庭さびしけれ

  靖国のやしろに友と睦むとも 折々かえれ母が夢路に

帰国後、あるテレビ局が出演を依頼してきた。「オーストラリアでは、大変な歓迎だったそうですね。テレビに出て下さい。ただ、何を喋っても結構ですが最後は"戦争は嫌だ"で結んで下さい」と頼んだが、まつ枝さんはきっぱりと断った。

戦争が好きな者はいません。

しかし無理難題を吹きかけられれば、やりたくない戦争をやらねばならない場合があります。

だから"戦争は嫌だ"という言葉は言いたくありません


と。

昭和55年(1980)1月24日、母堂は95歳の一生を終えた。
27日の葬儀には、中佐の忠烈を讃え、母堂を慕う400余人が辺鄙(へんぴ)もいとわず全国から参列。オーストラリア大使館からの弔電をはじめ、霊前には数々の弔辞が述べられ、詩吟、和歌などが献詠されて、葬儀は3時間に及んだという。


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