「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
    平成16年(2004)9月24日

中国の歴史改竄記念館を往く
なんでも「共産党」が偉かった、と歴史を作り替える

下記に掲げるいくつかの例証は、「勝てば官軍」式の大法螺陳列ショーケースと考えて良いが、「?」と意外感に打たれる箇所を紹介する。

中国共産党は、自分たちの国共内戦史も微妙な改訂、改竄をしている数々の例証である。

廬山 

あらゆる反日記念館では、中国共産党だけが「指導」した革命が鼓吹されている。国共合作を協議した筈の廬山会議址は、観光地化した避暑客がおしよせ、講堂で抗日戦の映画を見せられる。

蒋介石の別荘を毛沢東が接収したが、二階バルコニーの籐椅子は「毛沢東さまがおすわりになった」などと書かれ(これはもともと宋美齢の別荘だった)、入り口には「蒋介石の便所址」が残っている。おちゃらけにしてもしらける。
 
南昌 

最初に周恩来らが武装蜂起し、三日で鎮圧された南昌には「八一起義記念館」が市の中心「中山路」にある。当時、なにをしていたかわからない革命分子たちも「革命元勲」として褒めそやされている。入場券は江沢民が「軍旗弁起的地方」と揮毫している。8月1日は「暴動」開始の記念日。

遵儀(ジュンギ)会議址
 
貴陽からバスで二時間、北上すると行き着く。遵義は共産党の歴史のなかで、最も重要とされる会議となったが、場所は貴州省の奥地、どちらかと言えばトウ小平の生まれ故郷である四川省に近い。正式には「政治局拡大会議」だったが、1935年1月に毛沢東、周恩来、朱徳、陳雲らが集まった。会議が行われた場所は国民党第25軍師団長・柏輝章の私邸だった。当時の遵義では一番立派な建物、それを国民党の幹部が会議及び宿舎として提供したのだ。

(??ちょいわからん。国民党軍から逃げまくってた時、だよね?)

トウ小平にとって青春時代の想い出にも繋がり、しかも中央書記として正式に参加したにもかかわらず、その後の失脚によって革命後の展示でトウの写真パネルが欠落していた。写真展示を改竄するのも党内闘争では常套手段である。
 
一大会址

上海の繁華街のど真ん中にある共産党第一回大会の会議跡地。周りを「新天地」(大阪でっかw)という六本木に匹敵する盛り場(今週号のTIMEでも大きく紹介がある)が取り巻くのだが、肝腎の一大会址には、意外と観光客が少ない。

展示は殆どが写真で日本をうち負かした共産党は輝かしいのだ、とするトーン。観光客の人気は周恩来そっくりの蝋人形くらい。複製写真ばかりなのに撮影禁止である。
 
重慶政府址

「重慶政府」(蒋介石)の痕跡は完全に掻き消されているといっていい。その代わり、「曾家岩50号」といって戦時中の共産党連絡室(逃げ捲りの言ってみりゃ赤匪の隠れ家じゃんw)が残り、周恩来が執務したなどと宣伝されている。紅岩村も重慶臨時政府がおかれた粗末な農家が「紅岩革命博物館」。ともかくゲリラ、内ゲバを繰り返した共産党のすべてが美化されている

「歴史の鏡」をいう国の歴史改竄の実態である。


「長征」(一発変換するんだょナw)なんて、ちょい考えりゃ「大敗走」じゃんか

おかげさまでいろいろ調べられて、自国の戦後民主主義教育の馬鹿さ加減の確認・反省で、プレ団塊世代に団塊世代(1947年から1949年生まれ)、そして我々ポスト団塊世代の老後の楽しみは当分「近無尽蔵w」ですね。

これらの世代が、退職金日本に貯金したまま支那で暮らすのもおもろいかもね。生活費なんて1/20ですんじゃうでしょ。毎月安い生活費だけ取り崩してさ、「ごっつぃ語り部」になる。

世代育成の責任果たさなかったんだから、そのくらいしないと後世に顔向けできないでしょ。

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