へぇ〜、ネットで「正論」9月号論文読めるなんてもうけw、とか思って読んでみた。
2004年9月25日印刷して赤線引きながらじゃないと読んだ気がしないんで、まずシコシコとやってみましたネw。小五活字でA4版裏表印刷して4枚ですね。
さてと...ふむふむ。へぇ〜。。。
最後に、著者「林 健良(りんけんりょう)」氏の略歴見て、吃驚・ビックリ・(@_@;)・\(◎o◎)/!
こうあったヨ。
【略歴】林 健良氏
一九五八年、台湾台中市で生まれる。八七年、日本交流協会奨学生として来日。東京大学医学部博士課程終了、メールマガジン「台湾の声」編集長。台湾独立建国聯盟日本本部国際部長。日本李登輝友の会常務理事。在日台湾人の外国人登録証の国籍記載を「中国」から「台湾」に改正する「正名運動」プロジェクトを〇一年六月に発足させた。前在日台湾同郷会会長。
なになになにぃぃぃぃ〜、この人、1958年すなわち(昭和33年)生まれの、まだ46歳、ですかぁ〜w
この手の「運動」の会長ったら、おじいちゃんだとばっかり、この略歴見るまで思い込んでたもんなぁ〜。
そして、1987年ってことは、昭和62年に来日したばっかでまだ在日17年じゃなぃですかぁ。決して長くはないでしょ。
東大医学部博士課程終了ってから、1年生からでも10年か。修士からでも6年でしょ、かね?
こういう話題とは「直接関係ない」専攻の学業で、それこそ忙しかったでしょに。
まぁ極上の優秀な方なんでしょけどさ、それにしても、こちとら大学それも本来こっち関連じゃより知ってなきゃならんはずの社会科学系統法学部法律学科出てw、もうそれも26年も経ってしまってますんですよぉ〜。そんでやっと2002年9月17日以降でしょ、何とかそれなりに薄らボンヤリと考え出したのは。
それも何が凄いって、組織化してそのトップについてるようなことですわな。たいへんソw。
だからってわけじゃないですが、一回はそれなりにじっくりと、経歴見てからこりゃ体験だけじゃなくってキチンと調べて書いてるんだと感心しながら、またもっと「ジックリと」w(現金だよなぁ)読ましてもらいましたですネ。
頼もしい...
「台湾正名運動」って、日本発祥だっての昨日初めてわかったのでしたが、この方が提唱者だとわねぇ。それも、いきなり論題にしたみたいじゃなくって、日本での自分等の「外国人登録証」上の国名記載についてから問題提起してるらしいので、実際的で、たいへん好感もてたですな。
本文にバックナンバーはこれですぐ見れるけど、
http://www.emaga.com/info/3407.html
やっぱり高砂義勇兵の逸話ですが、何回読んでも感動的ですナ。
さてと...ふむふむ。へぇ〜。。。
最後に、著者「林 健良(りんけんりょう)」氏の略歴見て、吃驚・ビックリ・(@_@;)・\(◎o◎)/!
こうあったヨ。
【略歴】林 健良氏
一九五八年、台湾台中市で生まれる。八七年、日本交流協会奨学生として来日。東京大学医学部博士課程終了、メールマガジン「台湾の声」編集長。台湾独立建国聯盟日本本部国際部長。日本李登輝友の会常務理事。在日台湾人の外国人登録証の国籍記載を「中国」から「台湾」に改正する「正名運動」プロジェクトを〇一年六月に発足させた。前在日台湾同郷会会長。
なになになにぃぃぃぃ〜、この人、1958年すなわち(昭和33年)生まれの、まだ46歳、ですかぁ〜w
この手の「運動」の会長ったら、おじいちゃんだとばっかり、この略歴見るまで思い込んでたもんなぁ〜。
そして、1987年ってことは、昭和62年に来日したばっかでまだ在日17年じゃなぃですかぁ。決して長くはないでしょ。
東大医学部博士課程終了ってから、1年生からでも10年か。修士からでも6年でしょ、かね?
こういう話題とは「直接関係ない」専攻の学業で、それこそ忙しかったでしょに。
まぁ極上の優秀な方なんでしょけどさ、それにしても、こちとら大学それも本来こっち関連じゃより知ってなきゃならんはずの社会科学系統法学部法律学科出てw、もうそれも26年も経ってしまってますんですよぉ〜。そんでやっと2002年9月17日以降でしょ、何とかそれなりに薄らボンヤリと考え出したのは。
それも何が凄いって、組織化してそのトップについてるようなことですわな。たいへんソw。
だからってわけじゃないですが、一回はそれなりにじっくりと、経歴見てからこりゃ体験だけじゃなくってキチンと調べて書いてるんだと感心しながら、またもっと「ジックリと」w(現金だよなぁ)読ましてもらいましたですネ。
頼もしい...
「台湾正名運動」って、日本発祥だっての昨日初めてわかったのでしたが、この方が提唱者だとわねぇ。それも、いきなり論題にしたみたいじゃなくって、日本での自分等の「外国人登録証」上の国名記載についてから問題提起してるらしいので、実際的で、たいへん好感もてたですな。
本文にバックナンバーはこれですぐ見れるけど、
http://www.emaga.com/info/3407.html
やっぱり高砂義勇兵の逸話ですが、何回読んでも感動的ですナ。
(略)
...まず史実を確認しよう。まず高金素梅が非難する「日本軍による一九一〇年〜一九一五年の原住民大量虐殺」とは、日本の台湾総督府による原住民の平定を指しているようだ。外来政権への帰順を拒み、徹底抗戦に出た勇猛な原住民は、清国時代以来、統治当局や平地住民にとっては治安、開発における大脅威だった。
山は彼らの天下である。清国軍は歯が立たず、討伐を諦めたが、日本軍は五年にわたる戦闘の末、ようやく彼らを平定した。もちろん原住民にとって外来政権に帰順する筋合いは全くなかったが、日本の台湾近代化政策の流れの中で、起こるべくして起きた悲劇であった。
原住民によって編成された大戦中の「高砂義勇隊」について少し触れておきたい。
大東亜戦争勃発の翌一九四二(昭和17)年一月、まだ台湾では徴兵制度はおろか志願兵制度すらなかったが、フィリピンでの密林戦で苦戦していた日本軍は、山岳民族である台湾の原住民に着目し、台湾総督府を通じて従軍志願者を募った。
すると五千人もの原住民(当時の原住民人口は約十五万人)が志願に殺到したのである。そこから五百人が選抜され、高砂義勇隊(この第一回に限り「高砂挺身報国隊」と命名された)が編成された。
このとき選抜されなかった者の多くは怒り、悔しがり、涙を流し、血判書を提出するなど、大騒ぎをしたことが語り草になっている。
この時代、「兵隊になってこその一人前の国民」「戦に行けないようでは男でない」と言うのが原住民の一般的意識であったことは、当時を知る人に聞けばすぐわかる。。
高砂義勇隊は軍属(戦闘要員ではない)ではあったものの、その戦闘(奮闘?)ぶりは特筆に値する。
「人間業とは思えない敏捷さ、獣のような視聴覚と方向感覚、……軍紀の厳正さは正規軍を凌ぐとまでいわれ、しかも純真無垢な心と自己犠牲の精神は、戦友の胸を強く打った。……かくして、瞬く間に信頼と友情、そして尊敬の念をかちえてしまった」(名越二荒之助・草開省三編『台湾と日本交流秘話』)
よく取り上げられるのが、米五〇キロを背負ったまま餓死した義勇隊員の感動的なエピソードだ。彼は前線で飢餓に苦しむ日本人の戦友のため、山を越えて米を取りに行った。そして前線に戻る途上で力尽きたのである。自らは一粒も手をつけることなく……。
(これがまた感動的なんだわネ。涙々でさぁ...w)
義勇隊の記録は少なく、その実態はあまりわかっていないが、フィリピン、ニューギニア、モロタイなどの激戦地で過酷な戦いを強いられたことはたしかである。林えいだい氏が戦後に調査して纏めた『台湾の大和魂』(東方出版)によると、義勇隊の派遣は七回あり、総員四千人に上ったらしい。
ある遺族は「三千人が帰国していない」と言っていたから、悲惨な限りだ。
だが、私は台湾人として、このような義勇隊を心から誇りに思う。これを「抑圧」された結果と言うなら、これほど彼らに対する侮辱はないだろう。
なぜなら、当時の台湾人は日本国民だったのである。その彼らが国民としての義務と使命を、命を顧みずにここまで立派に遂行していたことは称賛に値する。
それを戦後の後知恵で「被害者」と見なしたら、勇者たちの魂は「犬死扱いされた」と怒り、悔しがることだろう。自己の利益の追求を至上とする中国人的思考からは、国に殉ずる戦士の心など理解できないのであろう。
もちろん私は、台湾人は日本国民であるべきだと言っているのではない。当時の時代的環境から見れば、台湾人は外来政権に支配される存在であったと言うことだ。
それでも、この歴史過程で台湾人は、日本の統治を通じて今日に繋がる近代的国民の資質を体得したのである。
それを「植民地下の抑圧」と恨むだけでどうするのだ。台湾人は、その歴史経験をバネにして、未来の台湾人の国造りに邁進すればよいのである。
それを考えることなく、台湾は中国の一部との観点から、日本への復仇心に燃える中国人的な発想を、台湾人である私は断じてとるわけにはいかない。
(以下略)
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