10月1日新幹線開業40周年記念日。ほぇ〜、そんな歴史が、あったのネェw
2004年10月1日■亜細亜大陸への「ひかり」の時代
「ひかり」という列車愛称を辿ってゆくと、なんと戦前までさかのぼることが出来ます。
(列車の愛称は、)第二次世界大戦前の省線(国鉄)では、一部の特急列車にしか与えられていなかった。
「富士」「櫻」「燕」「鴎」の東海道、山陽路を走る四種の特急だけである。
この特急「富士」と接続する急行列車として「ひかり」は生まれた。接続すると言っても、ホームが隣り合わせだったりするわけではない。
というのも、ご存知だろうか、日露戦争(1905年)、朝鮮併合(1910年)によって、日本が所有また敷設権を獲得した鉄道を……。そう、まず、日露戦争勝利後、日本はロシアが中国から獲得した南満州鉄道の敷設権を獲得した。
1910年、日韓併合条約で朝鮮併合を行い、日本の下関と釜山を経由して南満州鉄道の奉天(現在の遼寧省の省都瀋陽)を結ぶ朝鮮鉄道を建設した。
これらの鉄道と、当時のロシア帝国のシベリア鉄道を横断すれば、ヨーロッパまで到達することが出来る。
1912年からは、東京からロンドンまでの切符が発売されていた。
新幹線の原型となる型破りな高速車両もこの頃誕生した。ご存知の方も多いと思うが、南満州鉄道(満洲の平野)を駆け抜けた特急「あじあ」である。
この列車は、「パシナ」と呼ばれる専用の流線型蒸気機関車に牽引された、冷暖房完全装備で、当時としては超豪華な特急だった。
(最後尾のサロン列車なんて、豪華もいいとこ)
新幹線と同じく標準軌を採用した南満州鉄道を走る蒸気機関車「パシナ」は、動輪の直径が2mもあり、最高速度は120km/hにも達した。
当時としては並外れた性能をもった蒸気機関車であった。このことは、当時の国語の教科書に13ページに渡って紹介されていたという。
そして、東京からの「富士」の旅客を、南満州鉄道の特急「あじあ」に橋渡しをする使命を受けて、1933年、朝鮮鉄道の釜山〜奉天間に、第一・第二急行「ひかり」が誕生した。
ファシズムが台頭し、世界大戦が始まった直後の(ってな、余計な修飾はなぜつけたのw)1942年には、「ひかり」は釜山〜ハルピンまで延長されて運転された。
(だから哈尓濱はヨーロッパと東アジアの接点の都市だったのネ。ハルビンも大連=ダーリニィも元々ロシア語名だもの。「哈尓濱」「大連」はその音に漢字を当てただけ。高爾基=ゴーリーキーとかね)
(第一特急「富士」)東京15:00→下関9:35→下関(国鉄関釜連絡船)10:30→釜山18:00→釜山(第一特急「ひかり」)19:20→大邸着21:33→京城着3:05→平壤着7:33→奉天着16:20
(東京・瀋陽間が車中2泊3日、か。今は成田から2時間40分くらいかな?)
しかし、軍事輸送が拡大するにつれ、満鉄の「あじあ」が廃止されるなど、次第に旅客列車を圧迫していった。それでも、最後まで「ひかり」は残った。
■日本に上陸した「ひかり」
大陸の「ひかり」が戦争の敗北によって消え去ってから十数年、「ひかり」は再び走り始めた。
場所は北九州、博多から小倉を経由して大分と熊本を結ぶ、国鉄初の定期気動車急行列車だった。
(気動車:内燃機関をもつ客車。
機関車がそれ自体は動力を持たない客車を引っ張るってな通常のシステムと違うのかな?普通の都内走ってる電車みたいなもんか)
電車急行よりも早く走り始めたが、使われたキハ55系の設備があまり良くなかったので、すぐに準急に格下げされた。しかしながら、列車としては好評を得ていたので、行先を異にする編成を分割・併合する列車として発展していった。
2年後には第一「ひかり」、第二「ひかり」の二本が設定され、複雑な経路で運転された。ややこしいのでここでは省略しますが、この二本の列車は似ているようで似ていないので誤乗が多く、後者はのちに「ひまわり」と改称された。この「ひまわり」は、新幹線博多開業まで残った。
再び一本体制に戻った準急「ひかり」は、キハ58系で運転されるようになると、1962年に再び急行「ひかり」として走り出した。そして2年後、新幹線が開業すると、鹿児島本線のルートと豊肥本線のルートに分割され、前者を「にちりん」、後者を「阿蘇」の原型となる「くさせんり」として運転されるようになった。
■新幹線として大躍進した「ひかり」
当初、新幹線には愛称を設定しない予定であった。航空機のように「○○列車」と呼ぶ予定だったのである。
(ああ、321「便」とかの代わりに、231「列車」というわけ)
しかしながら、国民の間には、今までの特急には愛称があったので、「超特急」を冠する新幹線には当然愛称があるものだという考えが強く、愛称が公募されることとなった。
そして、公募が行われた。集まった葉書はなんと56万通にもなった。東海道本線のビジネス特急「こだま」は9万3000通、後の東北上越新幹線は16万通であるから、いかにたくさんの応募があったかがわかる。
そして、応募のあった愛称の中で、一番多かったものが「ひかり」であった。
なぜ「ひかり」が多く、2万票も集めたか。
それは超高速という文字を超光速と書いてみたり、実験段階での取材でも「光のように速い」という形容詞がよく使われていたことがある。
これらのことから、この決定に対して、異議は全く無かった。もちろん、東京から遠く離れた九州では急行「ひかり」が走っていたことなど、一般の人々は知る由も無かっただろう。
1964年10月1日、国鉄の最高技術を結集した0系新幹線電車によって、夢の超特急「ひかり」は走りはじめました。
(しかしなんでかな。航空機には決してこんな感情、というか思い入れは持たないのに。レシプロ機とジェット機は全く別物という感じだけど、蒸気機関車と超特急は親戚、というか連続性が感じられるからかな?)
建設段階では、国内ではバカ事業と揶揄され、航空機が発達した欧米からは、「衰退する鉄道を建設するなど愚かだ」と切り捨てられたが、いざ走りはじめたらこのような陰口は全く聞かれなくなり、欧米は東アジアの小国で起きた鉄道革命に衝撃を受け、結局のところ鉄道の可能性を再認識せざるを得なくなった。それだけ、この0系が世界に与えた影響は大きかったのです。
(「プロジェクトX」の世界、だよなぁ)
「ひかり」は順調に走りつづけ、最初は12両編成、大阪万博にあわせて16両編成、本数も一時間に1本から、最盛期は7本に増えた。
(8.5分に一本だね。時間厳守の習慣ない民族にゃムリポw)
JRに移行してからは、航空機と熾烈な争いを強いられたJR西日本が「ウエストひかり」「シャトルひかり」「ファミリーひかり」と、利用者獲得のために国鉄の枠を完全に脱した「ひかり」を作り出した。
一方のJR東海では、100系の「ひかり」によるイベントが好評で、0系の「ひかり」を次々と置き換えていった。
それに続けと、JR西日本は自社の100系を製造し「グランドひかり」を投入し、300系「のぞみ」の登場まで、「ひかり」の天下は続きました。
「のぞみ」の登場後は、速度の遅い「ひかり」は、衰退すると思われましたが、予想に反して0系、100系が早く現役を退くことになったため、300系が「ひかり」に投入されて来ました。
東海道区間では、2003年10月1日のダイヤ改正で「のぞみ」に主役を譲りました。
しかしながら、0系の「ウエストひかり」に代わる新しい700系の「ひかりレールスター」の活躍で、「ひかり」は今でも山陽新幹線の主力列車に君臨しています。
ここで満洲が出てくるとわなぁw
しかし、1912年すなわち大…
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