女帝論

2004年11月19日
(小堀桂一郎氏)

(略)

たしかに明治以前には十代八方(かた)の女性天皇が存在した。しかし、それは今ここで論じられている女帝とは質が違う話なのである。それは簡単にいえば、

天皇が崩御されたが本来の皇位継承者は未だ幼少であり、それが成長されるまでの「中継ぎ」として未亡人たる皇太后が即位されたといったケースである。

今でいえば「摂政」ともいうべきお立場であろうが、当然そこには男系の皇位継承予定者がおり、いずれ男系に戻ることが予定されていた。その間のいわば「つなぎ」がこの女帝だったのだ。

ところが、今論じられている女帝は違う。男系の皇位継承者が存在しなくなったケースでの話なのである。かかるケースでの女帝などというのは、これまでいない

そうしたかつてないケースをどう考えるかという話なのだ。その女帝のあとは、当然そのお子様が継承されることになろうが、その時皇統は「女系」に移る。しかし★わが国の歴史では、これまで女帝はいても「女系」は存在しなかったのだ。

だとすれば、問題は慎重の上にも慎重な検討が必要とされるだろう。

むろん、どんなことがあっても皇統は維持されなければならない。その意味では、いずれ皇室典範を見直すということも可能性としては否定できない。

しかし、それにしてもそれは大衆的に論じられるべき題材ではない。責任者が粛々と検討を進めればよい話なのだ。

(略)




(伊藤哲夫氏)

(略)

今の世間では、「男女平等の世の中ではないか」とか「男女共同参画の社会ではないか」という言い方がよくなされるし、「人間はみんな平等ではないか」という主張もある。

しかし、そういうことを言い出せば、「皇室も庶民と平等にしたらどうか」という話になる。

そうなれば当然、そもそも皇室という特別の存在を認めることだっておかしいという話にもなる
わけです。

あるいは、一般社会には「信教の自由」があるのだから、皇族の方々がどんな宗教を信仰されても自由ではないかとか、どんな職業を選ばれても自由ではないか、という話にも当然なってしまいます。

しかし、そういう★一般社会の法則とは全く違う原則によって成り立っているのが皇族というものの意味であり、また、そうした原則の中で継承されてきた伝統というものにこそ価値があるのです。

もちろん、そうした価値が時代によってある程度変更が加えられていくことを否定しません。しかし、男女平等の世の中だから男系も女系もない、などと簡単に言ってしまっていいとは思いません。

男系によって成り立ってきたのが日本の皇室であるという大前提を、私たちはもっと重く受け止める必要があるのではないか。

そういう前提に対するこだわりがなくなれば、先ほど述べたように、皇室の伝統というものはどんどんなくなってしまう。

もちろん、そうなれば、皇室は一般社会のファミリーと何ら変わらなくなってしまいます。

(略)

皇室の歴史にはこういう前例があるのです。だから、

旧皇族の方々にもう一度、養子という形で皇籍復帰していただいて、その方(あるいはそのお子様)に皇位継承資格を考えるということは、当然あり得ることだと思うのです。

ただ、余りにも傍系で離れすぎているという場合には、直系の内親王様と結婚していただいて、もう一度血統的に直系に近づけるということも必要かも知れない。

それは確かに女系的な要素を取り入れるということになりますが、しかし、あくまでも男系を大前提とした考え方なのです。男系を大前提として、女系的な要素によって血脈にも配慮する。結局、こうした形で皇位の継承というものは歴史的に維持されてきたということです。

そういう歴史の流れというものを考える時、そこにやはり非常に重いものを私は感じずにはいられません。

こういう歴史的な事実や伝統の重みを全く頭の中に入れず、単に「こういうご時世なのに、なぜ女帝で悪いのか」というような極めて安易な発想では、皇位というものを維持することはおぼつかない。

皇室の伝統というものは、そういう単純な考え方によって成り立っているものでは決してない、ということを強調したいのです。

(略)



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