(日本政策研究センター 伊藤哲夫氏)
(略)
国家というものの存在の意味を、ぎりぎりにつきつめる時、われわれの前に現われるのは、国家とは「防衛の機構」だという命題である。
国家はその領域内の平和と秩序をまず外敵の侵略から防衛し、国民の生命と財産と自由を断固守る。それがまず第一義の存在意義だからである。
アメリカ憲法前文は、このことを端的に、次のように宣言している。
「われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫の上に自由の祝福のつづくことを確保する目的をもって、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する」
ここでわれわれがとりわけ注目すべきは、この中の「正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え」との一節である。
「福祉の増進」や「自由の確保」というのは、当然掲げられるべき目的だが、そのためにはある確かな“前提”が必要なのである。
ボスニアやアルバニアの例を持ち出すまでもなく、国家秩序そのものが崩壊すれば、福祉だの自由だのというものは、求めても得られない。ということは、まず何よりも「平和と秩序」が確保されることが前提となるのである。つまり「正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え」ということである。
ところで、周知のごとく、先のアメリカ憲法前文をまさに模倣するがごとく作られたのが、わが現行憲法前文であった。
しかし注目すべきは、ここには国家の目的として「正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え」という言葉が、見事に欠落せしめられているという事実である。
それを担当するのはアメリカと彼らが思ったのかどうか、まさに戦後日本は「国家というものはまず自らを防衛するものだ」という国家の国家たる所以を、明確に否定される所から出発したという屈辱的な話であるわけだ。
ペルーにおける日本大使公邸占拠事件が解決された時、フジモリ大統領は国民に向け、「われわれは民主主義の基礎を作った。世界に対して模範を示した」と宣言したという。
それはまさに、ペルーは「正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え」た、と宣言したと同様のことだったといえるのではなかろうか。
(な、それが継続したかどうかは別にしてネw)
ペルーは自らが国家であることをこの時確認し、それを世界に敢然と示したということなのだ。
一方、これを否定された日本は、終始「平和的解決」という空しい言葉しか吐くことができなかったのである。
(アンパン総理だったもんなw)
◆国家を支える国民の「意志」
さて、国家が以上のようなものだとすると、それに次いで要求されるのは、そのような国家を身をもって支える「積極的な国民」という命題であろう。
というのも、そうした国民がいなければ、そもそも国家は「防衛共同体」たり得ないからである。
ここではやはり、まずアメリカ憲法を参考に、この問題を考えてみたい。同憲法修正二条は次のように規定している。
「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保蔵しまた携帯する権利は、これを侵してはならない」
読んで字のごとく、国家を守るのは市民からなる民兵であり、そのためには市民の武装の権利が侵されてはならないという規定である。
(「市民」が狂って濫用する危険=内政問題、よりも重要だ=外敵排除の外政問題、としてるわけだわな)
そもそもアメリカ人の基本精神は、自分の身は自分で守り、自分の財産は自分で築く、という所にあるとされ、そうした独立した個人が集まって自らの国家を守る、という精神が、いわゆる「共和主義の精神」だとされてきた。
(共和=合議制による政治形態、ってだけじゃないかもね。人民[public]の物[res]ってらしいからさ。イギリス王室の財産を、植民地人が盗っちゃったてわけだからネw、平たく言うと)
つまり、アメリカという「防衛共同体」は、かかる国民精神(共同幻想?)によって初めて成り立つ、とされてきたのである。
ちなみにいえば、こうした考え方は何もアメリカだけの話ではない。
国民が「自らの国を守る」というのは、実は国家が国家である限り要請される「人類普遍の原理」であるとさえいってよい。
ここでは参考までに、いくつかの国の憲法条文を紹介しつつ、この事実を確認してみたい。
◇「男子にたいしては十八歳から軍隊、国境警備隊、または民間防衛団における役務に従事する義務を課することができる」(ドイツ連邦共和国基本法第一二条a)
◇「祖国の防衛は市民の神聖な義務である。兵役は、法律の定める制限および態様において、義務的である」(イタリア共和国憲法五三条)
◇「すべての市民は、共和国に忠誠であり、ならびにその憲法および法律を遵守する義務を有する」(同五四条)
◇「いずれのスイス人も防衛義務を負う。市民的代替役務については法律でこれを定める」(スイス連邦憲法第二条)
◇「すべての国民は、法律の定めるところにより、国防の義務を負う」(大韓民国憲法第三九条一項)
つまり、表現の仕方はいずれにせよ、国家とは国民の「国家防衛の意志」をまず例外なく要求する存在であると同時に、また逆の面からいえば、それによって初めて成り立つ存在でもある、ということなのである。
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