国家論(2)

2004年11月19日

◆国家と国民の物語

ところで、これまで国家は「防衛共同体」であり、それは国民の積極的な「防衛意志」によってこそ、強固に支えられるものであると述べてきた。

しかし加えて、その国家と国民を心の世界で結ぶもう一つの「何か」がなければ、この「一体の構図」も成り立たないといえるのではなかろうか。

国家が「防衛共同体」だというのは、誰にでもわかる明快な事実である。

しかし、本来それ(国家)によって生命と財産を守られるべき国民が、場合によっては、自らの財産のみならず生命までをも、逆にその国家に差し出さなければならないとしたら、それはどう考えても背理という他はなかろう

そだそだ、金で雇っちまえっ!てことで「精神まで腐った滅びた」のがカルタゴとかオランダだったのかな?w

だとすれば、それを背理としないためには、(国家の構成員で国家によって保護されている)国民をして「国家への(血と命の)献身」を当然と信ぜしめるに足るだけの、ある「精神的契機」が要請される筈なのである。

だって、「自分は亡くなる」んだもんなw

それが以下に述べる「国家と国民の物語」ということなのだ。

先に見たアメリカ憲法前文には、「正義を樹立し」という言葉があった。

これはアメリカが、単なる国民の生命や財産に対する「防衛体」であるというだけではなく、同時に「正義」のための「防衛体」でもある、ということを示すものだといえる。

アメリカという国は、まさにこの「正義」を体現する存在であり、むしろアメリカ国民は、その「正義」を守るためにこそ、いざとなれば国家に生命をささげるのだ、というのが、このアメリカ憲法の精神でもあったわけだ。

つまり、そこに機能している「正義の物語」こそが、例の「アメリカは自由のために建国された」という、アメリカ版「国家と国民の物語」なのである。

むろん、これはアメリカだけの話ではない。どの国にも例外なくその国なりの「国民と国家の物語」があるともいえる。

それがそれぞれの国民を「本来の国民」たらしめるべく精神的に鼓舞するのであり、またそれぞれの国家を、「精神なき堕落」の道から軌道修正せしめる「規範」ともなるということなのである。

前出の佐伯(啓思)氏は次のように述べている。

「あらゆる人為的構成体はなにがしかの神話を、フィクションを必要とする。それは国家だけでなく、企業においても、宗教団体においても同じである。この事情は、本質的には、一人の個人においてさえも何ら変るものではない。自分が何者であるかということに関する一切の『神話』から無縁で生きている者などまずは存在しないであろう。

むろん、その中で、国家という集合体の『神話』が決定的に重要な意味をもっていることは否定できない。したがって、また、

『神話』が崩壊すると、国家は危機に瀕し、また国家が危機に瀕するとき、神話がことさら叫ばれるのである」

ちなみにいえば、この「神話」―「国家と国民の物語」がわが国において、完膚なきまでに否定されたのが、かの占領政策においてだったことは、改めていうまでもなかろう。

われわれ日本人はそれにより、それまで国家と国民を固く結びつけてきた「精神の絆」を切断され、冒頭でも見てきたような「国家ならざる国家」へと一方的に貶められることとなったのである。

「一国の人々を抹殺するための最初の段階は、その記憶を失わせることである。その国民の図書、その文化、その歴史を消し去ったうえで、誰かに新しい本を書かせ、新しい文化を作らせ新しい歴史を発明させることだ。そうすれば間もなく、その国民は、国の現状についても、その過去についても、忘れ始めることになるだろう」

チェコの小説家ミラン・クンデラはこのように述べるが、まさにこれと同じ状況へと落ち込まされたのが、われわれ戦後の日本人であったといえるのだ。

◆ここに「改憲論」の眼目がある

ここでもう一度、以上述べてきたことを確認したい。

「防衛共同体」たる国家は、それだけでは成り立たない。そのためには、身をもって献身してくれる「国民」が必要だといえる。

しかし、その一方「国民」というものは“即自的”に成り立つものでもない。そのためには国家の成員を、自覚をもった「国民」へと形成する「精神的契機」が必要だともいえる。

それが以上に見てきた「国家と国民の物語」というものなのである。すなわち、

当の国家を、生命を捧げても悔いのない「特別の存在」として認識せしめるとともに、自らをその国家に(あるいはその墓下に眠る「死せる先人たち」に)精神的につながる一人の「国民」として意識せしめる「精神の物語」がまさに要請されるということなのである。

(略)

最近、様々な所で憲法改正ということが話題になる。しかし、そのほとんどはピント外れというのが筆者の率直な感想である。というのも、それらは全てといっていいほど、以上に見てきたような「国家の本質」への問いを見事に欠落させているからである。

憲法改正の最大の眼目は、この日本という国家を「国家たらしめる」ということにある。ということは、まず問われるべきは、何をおいても「国家の国家たる所以」の位置づけである筈なのである。

なのに、ほとんどはこの問題に触れることすらしない。一体この肝心な問いを外して、この国のどこをどうしようというのか、というのがここで筆者が指摘したいことなのだ。

冒頭にも指摘したように、国家を無視しよう、弱くしよう、というのが最近の傾向であった。しかし、この傾向は、まさに憲法改正論議の中にこそ、如実に現われているのではないかといわずにはおれないのである。

これでは国家再建などあり得ないだろう。今こそわれわれはこの「国家なき日本」を直視し、そこからの脱却を本気になって考えるべき時だと思う...(略)




で、残念ながらこういう哲理?w(世間的には常識)を論ずるに足るどたまと根性有してる議員さんは少ないので、もはや時間切れだからまず「9条2項削除だけ」やってみよう、てのが正解でしょ。

60年もこんなザマだったんだから、無理ですよ。

だから領域警備を世間(世界)並みにやってるうちにそういう事柄もおのずと(具体的なあの人死んだいとこがやられたてな)事例的にわかるような「空気」になってくるってなことで、OK?w

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