タイプに拘ったからでしょ。手書きでいいじゃんw
2004年12月6日(産経新聞)
◆真珠湾攻撃、最後通告
野村大使ら葬儀欠席 当日の新資料発見
遅延原因、否定の物証
昭和十六年十二月七日(米東部時間)、真珠湾攻撃当日の在米日本大使館の動きを示す新資料が発見された。
当日行われた新庄健吉陸軍主計大佐の葬儀に関するもので、駐米日本大使は欠席していた。葬儀に出席したために最後通告が遅れたとのこれまでの見方(文芸春秋平成十五年十二月号「真珠湾『騙し討ち』の新事実」など)を否定する物証といえそうだ。
資料は、長崎純心大の塩崎弘明教授(国際関係史)が遺族から譲られたもので、大佐の葬儀を扱った米葬儀社の会葬者名簿のほか、葬儀に出席した陸軍武官が大佐の未亡人にあてて葬儀の模様をしたためた手紙など。
新庄大佐は昭和十六年一月、杉山元陸軍参謀総長名で、米国で諜報(ちょうほう)活動に当たるよう訓令を受けた。十二月四日に急性肺炎で死亡するまで鉄鋼・航空機の生産量など米経済力に関する報告を詳細に打電していた。
葬儀は、最後通告する予定だった時刻の二時間後の十二月七日午後三時に始まった。米側から米陸軍情報将校二人が出席したほかマーシャル米陸軍参謀総長ら六人が連名で献花していた。
葬儀社「ハインズ・カンパニー」の会葬者名簿には、日本大使館員らのサインがあったが、野村吉三郎、来栖三郎両大使の名前はなかった。
当時の磯田三郎駐米陸軍武官は昭和五十一年に大佐夫人にあてた手紙の中で、「当初は両大使も葬儀に参列する予定だったが、ラジオが真珠湾攻撃を伝えたため、参列が中止された」と証言。
塩崎氏は「行き違いで米将校が開戦を知らなかった可能性もある」としながらも、攻撃前に参列を中止すれば「米国側が外交電文を解読していることを悟られてはならないとの計算が働いた可能性はある」と指摘。
一方、日本側が開戦日に葬儀を挙行したのも「大使館が事前に重要情報を東京から知らされていなかった証拠ではないか」と話している。
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■「訂正電報」も原因
■昭和史研究家・茶園義男氏調査
日米開戦の最後通告(英文)が米国政府に手渡されるのが遅れたのは、日本の外務省から在米日本大使館へ送られた直後、さらに英文字で約六百五十字に及ぶ「訂正電報」が送られたことも原因になっていたことが、昭和史研究家、茶園義男氏の調査で分かった。
対米最後通告は、日米交渉の経過を記した第一部から第十三部までと、交渉の打ち止めを告げた第十四部に分かれる。
十三部までは、米東部時間で十二月六日夜半までに日本大使館へ到着し、第十四部は翌七日朝に到着した。
これまでの外務省の発表などによれば、十三部までをすぐにタイプ清書しておかなかったため、七日午後一時の最後通告の時刻に間に合わず、「だまし討ち」の汚名を着せられたとされる。
ところが、茶園氏は東京・飯倉の外交資料館で、最後通告の原文を調べたところ、第一部から十三部までの二十八カ所に、鉛筆で修正した跡がうっすらと残っていたことが判明。さらに、当時の大使館員が書き残した報告書の次のくだりに注目した。
「手交(手渡す)時間を指定せる訓令、第十四通目、二、三の訂正関係数通の電報が十二月七日朝七時から八時の間に大使館に配達された」(結城司郎次参事官)
「訂正電報の中一通はやや長いもので之が為『タイプ』で清書した一頁をまた全部打ち直さねばならず余計に手間取った」(奥村勝蔵一等書記官)
茶園氏は「外務省が公式発表している最後通告は、訂正が済んだ後の英文だ。実際は、まず、第一部から十三部までの原文が送られ、時間を置いて訂正電報が送られた。在米日本大使館では、この訂正にも相当な時間を要したものと思われる」と分析している。
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対米最後通告遅延問題 日本は昭和16(1941)年、真珠湾攻撃の約30分前の米東部時間12月7日午後1時(日本時間12月8日午前3時)に米国に最後通告を手渡す予定だったが、在米日本大使館でのタイプ清書が間に合わず、野村吉三郎、来栖三郎両大使が最後通告を持って米国務省に着いたのは午後2時過ぎ。
しばらく待たされた後、ハル国務長官に最後通告を渡したのは、真珠湾攻撃から1時間近くたった午後2時20分になっていた。
米国は当時、日本の外務省電報の暗号解読に成功し、ある程度予測していたが、「だまし討ち」と非難し、「リメンバー・パール・ハーバー(真珠湾を忘れるな)」を合言葉に米国民を対日戦争に結束させた。
日本の外務省は平成6年11月、ようやく奥村氏ら当時の大使館員の報告書などを公開し、大使館を含む同省の不手際を認めて謝罪した。
そうすっと、現在のチャイナスクールの弊害なんかは、あと60年経たないと清算できないんだ、とw
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